乱暴なDTM講座

DTMの闇に切り込んだ国内初のブログ

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去年くらいからDTMは趣味としては辞めて、(仕事としては月1曲くらいは作ってる)写真のようなモバイルできるシンセ・サンプラーを買い集めている。

昔から機材はたまに買っては、一通り機能を試して、箪笥に仕舞うということを繰り返してきてしまっているんだけれど、自分の中でその理由がモバイル不可、デスクトップ用途な機材でそれが起きるということを突き止めたので、今はモバイルできる機材だけを揃え始めたのだ。

そうすると、たとえば、家の中でリビング、寝室、書斎と移動しながら常にそばに機材を持ち歩くことで、スイッチを入れる気になるわけで、さらに音をだすのも上の写真にあるようなミニスピーカーで鳴らせばどこでも鳴らせるわけで、これだと割と多動な自分の性格にもフィットする。たまにファミレスにも持ち込んでいる。

そして、少しづつだがマニュアルやチュート動画をみながら操作を覚えていっている。で、目指すところは何か?というと、もちろんアウトプットをしたいと考えている。

YouTubeなどで最近よく目にする NODAW LIVE というやつだ。そもそもなぜNO DAWなるキーワードが出てきたか。これは自分のような長年DTMをやってるものならよくわかる。要はDAWはどこまでも追い込むことができるので、出てくるサウンドに言い訳ができないのだ。少しでもクオリティが低いとそれは敗北であり(一つの価値観と断っておく)DAWとはもはや修羅の道と化している。それに疲れた勢が、出てくるサウンドがある程度天井が低くても、その範囲の中で手を動かしてリアルタイムに生成したサウンドで驚きのクオリティを感じさせる。という遊びなのだ。そう。DAWでは遊びを感じなくなったやつらが、遊んでいるという感じがとてもする。

それからNODAWが生まれたもう一つの背景は、YouTubeである。要は映像でDAWは映えないが、シンセを弄るのは映えるのである。私のようにカメラをやる人間だと特にそこに目がいく。NO DAW派の撮影の技術も日々上がっているのも見ていて楽しい。

前置きが長くなったが、自分もそれがやりたくなったのだ。


例えばこれとか


これとか

失礼ながら、これら曲単体だったら、これといって個性を感じない曲なわけだが、こうやって、シチュエーションや撮り方にワンアイデア加えて動画にするとものすごく見る理由が生まれるわけである。電車の中でアシッド??とか。これが新しさの創出である。音楽だけ作って置いておけばきっと誰かが見つけてくれる。とか他力本願で甘えた考えではなく、自分から見てもらいにいっている感じがいい。

これに便乗してか知らないが、いい機材がたくさんリリースされている。ここ最近稼げてる自分は5万程度のシンセなら、バンバン買い足せる。といってもとにかく腰が重いし、覚えがわるい。実際いつから始めるかは未定だが、そろそろ必要な機材は書い終わった。



ちなみに一番すごいなと思ったのはこれ。この動画みてすぐに、2つほど機材買い足した。(まだ箱開けてない)




この人もちょっと異次元に使いこなしてる


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企画から参加、座談会、デザインなどをコミュニティメンバーがやってくれています。私は忙しくて全く参加していないんですが、すばらしいですね。コミュニティメンバーも微増しています。全くお金がかからないんですが、お金がかかるところと違ってサービスみたいなのは一切ないコミュニティです。その代わりメンバー間のマナーの高さが求められます。基本は暖かい人たちの集まりなので、どんなレベルの方でも作曲したい、できるようになりたい。と言う人向けのコミュニティですね。詳細はこちら

メンバーで大阪や東京でオフ会をたまにやっていて私も近所のメンバーとたまに食事したりします。DTMにかなり造詣が深いメンバーばかりなので酒が入ってると長話に花が咲きますね。







年末にコミュニティのボイチャで、ぼるぼくんからこのセリフが出てきた。

「それって才能やと思うんですよね」

そのことについて書いていく。


まず、自分はある程度音楽で頑張ってた時期があって、それでも結局芽が出ずにやめてしまった過去がある。それ以降音楽は趣味として考えていた。また、お金を稼ぐというテーマのもとであれば、映像、グラフィック、文章、これらの勉強を適度にこなし、お金という結果を産むことができた。

ただ、それを才能だとは考えたことがなくて、単にお金を稼ぐスキルだと自分は思っていた。


また、ぼるぼ君は自分の好きなジャンルの音楽をかなり気合入れて作っていたが、それではお金を産むことができず、だんだん苦行になっていた。しかし、ある時になんのきなしに始めた、ビートメイクで今は学生には十分すぎるほどのお金を稼いでいる。彼がそれに費やす時間は週に数時間だ。

我々に共通しているのが、まず最初に何かに挑戦して諦めた(方向転換した)ところである。そしてそれ(新しく取り組んでる物)は、今でも門外漢であると思っているし、心底好きなものでもなく、こだわりもないので皆が好きなように気兼ねなく寄せられる。ということである。

最初に何かに挑戦している時に得たスキルは、存分に生かされるし、お金を産むことによって満たされる部分が大きいので、また勉強をする。しかも、それに全時間を注ぎ込むわけではなく、短時間でさっと作ることが多い。

これをボルボくんは、「これって才能やと思うんですよ。」といったわけである。

で、自分はなるほどと思った。そしていろんなことが後から思い当たる節がでてきた。

例えば、こだわりがないという部分で、自分の中で100点じゃなくても全然ポンポン出せること。その道のプロみたいな人がいるとしても、全く気にならないこと。(そもそも興味がない)大事なのは、クオリティよりも、それっぽく見えるかどうかだけであり、効率的にお金を産むことである。

がんばってクオリティを上げ続けて時間をかけるとコスパが下がる。コスパが悪いと、やる気がなくなる。コスパがいいと、俺全然がんばってないのに、金だけ入るわ。ワロ。という感じで優越感を得られる。しかし、ここで大事なのは、難なくできるので、割と大量に作れることだ。大量に作れるので、クオリティ高めるタイプの競合は追いつけない。しかも大量に作ってる間に徐々にクオリティも上がっていくのだ。

ボルボくんと私にもう一つ共通しているのは、まさにここで、我々が何かを作るスピードは異常に早い。例えば私のこの文章にしてもこんなの30分もあれば書ける。何も考えずに。大事なのはコスパだ。コスパがスピードを産む。


あらゆるツール、あらゆる知識、それらを採用するかどうかはコスパだけであり、それ以外の判断基準を持たない。

それくらいドライに考えられるもの。そういうものと出会えること。これが大事で、それに出会えた我らはとても快適に日々を送っている。面白いのが、それを続けていると、その道のプロにいつの間にかなってることである。

一方こういう考えの人もいる。

才能は苦行と共に開花させるものである。誰にも認められなくとも、毎日苦しみの中で育まれる物である。といった考え。

私はこの思想に長らく苦しめられた。常にその道のプロと比較し、自分のダメさに嘆き、やる気をなくし、鼓舞するために学習にお金をかけたりして、それでも逃げたい気持ちが裏腹にあるので、効率が悪くて、また自己嫌悪。といった感じ。自分の作品が他人に理解されないことも苦しい。

しかし、もしその道のプロと呼ばれる人たちが上記のように、実はそんなにこだわりなく、それっぽく聞こえるように作っていただけとしたらどうだろう?それに影響された人たちだけが、深読みして勝手に頭の牢獄をつくっているだけだとしたら・・。

今はもう絶対にこういう効率が悪い物に手を出すことはないと断言できる。なぜなら人生は有限だからである。


まとめると、才能というのを、自分が苦もなくできることの中で、思ったよりも他人にウケることであり、確実にお金を産む技術であると定義することにした。

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