バンクーバーの安アパートで俺たちは、4トラックMTRで曲を吹き込んでいた。当時俺は一人でできる音楽を模索していた。リズムマシンとギター・ベース。そして自分のボーカル。それらを組み合わせて新しい音楽を作れないか試し続けていた。
そして、それは、まさに黒歴史というにふさわしい変な曲ばかりを作っていたのだが、その作曲手法というのを、きみなり君に見せたところ、面白がってくれ、一緒に即興で曲を作りまくったのだ。たしか3曲くらい作った気がする。
そして、その時の経験が、ならおかファームの原点になっていると、後に彼が語ってくれた。当時彼は音楽をやるというのは、1つのジャンルを極める。ということだと固く信じていたのだが、俺がやっていた作曲法というのは、自分の中から出てくる変な物。をそのままレコーディングするというものであり、それはある種の変態趣味のようなもので、作る過程も、出来た曲も人に聞かせるのは、完全に露出趣味のようなものであり、そんな俺の作曲法に、彼も感化されたようなのだ。
そうこうしていると、きみなり君は1年のワーキングホリデービザが切れる頃になり、これからアメリカ横断の旅にでる。と言い残して行ってしまった。短い間だったが、18歳の俺と20歳のキミナリ君の出会いから、一緒にセッション録音したのは、深く刻まれた思い出となった。
そして、その後手紙が届いた時に、俺は驚くこととなる。
つづく
ならおかファーム
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