
キミナリくんが中国に渡って数年。俺も仕事に忙しくて、全然連絡をとってなかった。たまに中国でうまくやっているのだろうか?とかも思ったけれど、連絡しようとは思わなかった。
そんな2018年6月、突然キミナリ君から連絡があった。今愛知県豊田市に住んでいて、今夜東京にいくから会わないか?という誘いだった。
久しぶりに会った彼は、ちっとも変わってなくて、そして幾つになっても熱い(熱苦しい)男だった。彼はまたバンドをやるかどうかを考えるために上京していたようで、正直俺はそんなことよりも、一体中国で何をやっていたのか?の方がしりたかった。
だが、そのときは、俺は自分がこの数年間で何をしていたか。の話ばかりして、彼の話を聞く暇がなかった。そうこうしていて、彼が豊田市に帰るという日に、俺は車で家まで送ろうか?と聞いた。いろんな話をしたかったのと、彼の生活をみてみたかったのだ。それで深夜の東名を豊田市までドライブしながら、あれこれ話をきいた。
いろいろと壮絶な時間を過ごしてきたようだ。その過程でいろんなものを失い、今は農家として生活している。とのこと。彼の家につくと、簡素な部屋にぽつんと鍵盤とノートPCがあって作曲は続けていると言っていた。そういえば彼の曲はもう長く聞いていないから、聞かせてくれよ。と言って1000曲もあるストックの中からいくつか聞かせてもらったところ・・・。
ものすごい衝撃が走った。これはすごい才能じゃないか。次から次に出てくる個性的な曲。時にはピアノ曲、時には歌もの電子音楽。彼はこの10年間くらい、ほとんど毎日作曲を続けていたそうだ。そしてそれらはどれも独創的で、俺は、あの日18歳のバンクーバーの床に座りながらレコーディングした時を思い出した。
あれを続けていたんだ・・。44歳になった彼の曲は今でも実験精神にあふれていて、そして個人的な世界を紡いでいた。俺も42歳になって、大抵の音楽には感動しなくなっていたが、このキミナリ君の曲には心を打たれた。
誰にも聞かせてなかった。と彼は言った。その理由は、こんなのに価値なんか無いと思ってたから。とも言った。
いやいやいや。価値はあるよ。少なくとも俺にとっては、他にどんな曲があるのか全部聞きたいよ。そういった。
そして、これはきっと他にも良さがわかるやつがいるはずだから、世の中に出していこうよ。そう言って始まったのが、ならおかファームの活動なのだ。
自分を出さずにジャンルに紛れる表現手法が多い中、彼は自分一人だけのジャンルを作り出している。うまくやるんじゃなくて、そのままをやる。これがどれだけ難しいか。
彼はいつのまにかたどり着いていたのだ。そしてそれは実は最初からあったのだ。ならおかファームは今Youtubeを使って、ファンを増やそうとしている。そして生活費は野菜付きCDと、作曲講座の売上だ。とても貧しい生活を送っている。だけれど、心はとても満たされているらしい。
そのままの自分を認めてくれることの喜びを知ってしまったら、もう格好つけて生きるのは時間の無駄だとわかったらしい。
俺はこのコラムを通して、このブログの読者に少しでもDTMの懐の深さを知ってほしいと思っている。DAWで出来ることは、もっといろいろあるんだよ。
ならおかファーム
コメント