乱暴なDTM講座

DTMの闇に切り込んだ国内初のブログ

カテゴリ: 痛烈コラム


安くていいシンセが出まくる昨今は本当に黄金時代だと思う。特にSonicwareのシンセはいい。何がいいって開発者がシーンを研究しているところだと思う。ローランドやコルグがその辺がいまいちだったのをSonicwareはよくわかっている。またSonicwareは海外のシンセをよく研究していると思う。日本のメーカーは日本人向けに作る必要は全くなく、海外のシンセフリークに出した方が結果売れると判断したSonicwareの経営判断はすばらしい。今シンセが売れるかどうかはYouTubeでどれだけ使われるかでありdawlessシーンにどれだけ受け入れられるかが重要である。市場で認められたメーカーはクラウドファンディングでも新機種の量産費用を集められるのもいい。攻めた機種でも、どれだけ市場が求めているのか事前にわかるし、お金が集まればリスクなく作れる。



楽器は滅多にリセルしないが、最近ここ2年使ってたカメラをメルカリに出した。新機種がキャッシュバックやおまけがつくキャンペーンをやってて、旧機種のリセルしたら多分、新機種を数万円の投資で買えると思ったからだ。カメラはずっと持っていてもリセルバリューが落ちていくだけなので、新機種に乗り換える人が多いとYouTubeで見てなるほどなと思ったのだ。

自分にとってカメラはお金を稼ぐ道具で、25万くらいで買ったカメラで数百万稼げたので、数万円の投資で新機種の新機能が実質無料で手に入るわけだ。ただ、実際に手にしてその新機能も実際いらないなと思った。旧機種でも全然まだいけると思った。ただ、その新機種も2年後くらいに売ることになるだろう。

そのカメラと、動画編集用に買ったmacbookpro (50万)はすぐに元が取れたので本当買ってよかった。楽器もそんな感じにお金を稼げたらいいのになと思うが、動画市場に比べて音楽は需要が少ないのでそうはいかない。そうなると買った楽器に買った理由みたいなのを見出すためにずっと身近に置いておくことになる。

それに今どきお金になる楽器とはソフトであることがほとんどだ。仕事で使う楽器はソフトのみだ。それは作業が早いことと、ある程度のクオリティが最初から担保されていることが理由である。

道具が道具として輝かせるにはやっぱり金になろうとなるまいと、たくさん使ってたくさん成果物を出すことだと思う。


ダサくて誰得機材ばかりリリースしてたローランドがここ最近はツボ押さえた機材出してきててビビる。

今までのローランドって大体こういうイメージ
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80年代のロボットのコクピットイメージしてるんだろうけれど煩雑すぎてユーザービリティ低い。あとボタンとかちゃっちい。


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これもギリダサい。色がたくさん→おしゃれ。って子供の発想。ボタンが光る→まじかっけぇ。って光り方が昔のカーステっぽいのが嫌。


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それが今回これだからね。ボタンとノブを全て丸にしてるところとか、白と黒で統一してるとことかマジでナイス。欲しくなる。

ただ、欲しくなるにはもう一つマーケティングが必要で、それがデモである。このページの上にあるデモを見て今回、あーこう言う曲も作れるのか、なら欲しいなと思ったのだ。


残念ながらこれじゃ欲しくならないのだ。こういうおじさんが作るデモはYMOの出来損ないみたいなやつで、または浅倉大介みたいなやつで、これまでの数十年間日本のシンセメーカーは、なぜか浅倉大介とかを頂点にしたような世界の市場をまったく見ないデモ演奏ばかりをオフィシャルで公開していて、その中でもローランドは、それじゃない感がすごかったわけだ。

話は少し変わるが、カメラも日本のメーカーが圧倒的に世界のシェアをとっているわけだが、ここ最近コンシューマーに向けてのマーケティングがだんだんよくなっている。その手法は世界のカメラインフルエンサーにカメラを貸し出して自由に使ってレビューしてくれ。というもので、もちろんそこにはギャラも発生しているのだが、基本酷評してもらっても構わない。というスタンスでやってるっぽい。ユーザーはカメラを買う時に、カメラ系インフルエンサーのレビューは最も参考にするので、このやり方は正しい。

同じく電子楽器も徐々にこのやり方が増えているが、まだまだぬるい。そもそも単価がカメラほど高くないわけだから、数千人くらいのフォロワーのインフルエンサーにも貸し出してレビューさせるべきなのだ。インフルエンサーも発売前の機材を触ってコンテンツを作れるわけだから断るわけがない。

話をまとめると、こういう楽器を買う層がYouTubeを見る可能性は非常に高く、同じ機材のレビューは全て見ると言っても過言じゃない。もちろんレビューだけじゃなくてjam no talkingといったやつも重要だ。

追加で言うと、そのシンセを特に使いこなしてるインフルエンサーには追加でギャラを支払ってでも何本も突っ込んだ使い方のチュートリアル動画を出してもらったり、なんならフィードバックしてもらって、機能のファームアップデート(無理なら次期モデルでのアップデート)をするべきだ。

その際間違ってもオフィシャルのチャンネルで出してはだめだ。オフィシャルでやると、この機材ださいのにメーカーから金もらえるから、言わないでおこう。といった忖度が発生しやすい。

この辺のアイデアは無限にあるので、今後も出していこうと思う。業界関係者見てたらぜひ参考にしてください。




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去年くらいからDTMは趣味としては辞めて、(仕事としては月1曲くらいは作ってる)写真のようなモバイルできるシンセ・サンプラーを買い集めている。

昔から機材はたまに買っては、一通り機能を試して、箪笥に仕舞うということを繰り返してきてしまっているんだけれど、自分の中でその理由がモバイル不可、デスクトップ用途な機材でそれが起きるということを突き止めたので、今はモバイルできる機材だけを揃え始めたのだ。

そうすると、たとえば、家の中でリビング、寝室、書斎と移動しながら常にそばに機材を持ち歩くことで、スイッチを入れる気になるわけで、さらに音をだすのも上の写真にあるようなミニスピーカーで鳴らせばどこでも鳴らせるわけで、これだと割と多動な自分の性格にもフィットする。たまにファミレスにも持ち込んでいる。

そして、少しづつだがマニュアルやチュート動画をみながら操作を覚えていっている。で、目指すところは何か?というと、もちろんアウトプットをしたいと考えている。

YouTubeなどで最近よく目にする NODAW LIVE というやつだ。そもそもなぜNO DAWなるキーワードが出てきたか。これは自分のような長年DTMをやってるものならよくわかる。要はDAWはどこまでも追い込むことができるので、出てくるサウンドに言い訳ができないのだ。少しでもクオリティが低いとそれは敗北であり(一つの価値観と断っておく)DAWとはもはや修羅の道と化している。それに疲れた勢が、出てくるサウンドがある程度天井が低くても、その範囲の中で手を動かしてリアルタイムに生成したサウンドで驚きのクオリティを感じさせる。という遊びなのだ。そう。DAWでは遊びを感じなくなったやつらが、遊んでいるという感じがとてもする。

それからNODAWが生まれたもう一つの背景は、YouTubeである。要は映像でDAWは映えないが、シンセを弄るのは映えるのである。私のようにカメラをやる人間だと特にそこに目がいく。NO DAW派の撮影の技術も日々上がっているのも見ていて楽しい。

前置きが長くなったが、自分もそれがやりたくなったのだ。


例えばこれとか


これとか

失礼ながら、これら曲単体だったら、これといって個性を感じない曲なわけだが、こうやって、シチュエーションや撮り方にワンアイデア加えて動画にするとものすごく見る理由が生まれるわけである。電車の中でアシッド??とか。これが新しさの創出である。音楽だけ作って置いておけばきっと誰かが見つけてくれる。とか他力本願で甘えた考えではなく、自分から見てもらいにいっている感じがいい。

これに便乗してか知らないが、いい機材がたくさんリリースされている。ここ最近稼げてる自分は5万程度のシンセなら、バンバン買い足せる。といってもとにかく腰が重いし、覚えがわるい。実際いつから始めるかは未定だが、そろそろ必要な機材は書い終わった。



ちなみに一番すごいなと思ったのはこれ。この動画みてすぐに、2つほど機材買い足した。(まだ箱開けてない)




この人もちょっと異次元に使いこなしてる



年末にコミュニティのボイチャで、ぼるぼくんからこのセリフが出てきた。

「それって才能やと思うんですよね」

そのことについて書いていく。


まず、自分はある程度音楽で頑張ってた時期があって、それでも結局芽が出ずにやめてしまった過去がある。それ以降音楽は趣味として考えていた。また、お金を稼ぐというテーマのもとであれば、映像、グラフィック、文章、これらの勉強を適度にこなし、お金という結果を産むことができた。

ただ、それを才能だとは考えたことがなくて、単にお金を稼ぐスキルだと自分は思っていた。


また、ぼるぼ君は自分の好きなジャンルの音楽をかなり気合入れて作っていたが、それではお金を産むことができず、だんだん苦行になっていた。しかし、ある時になんのきなしに始めた、ビートメイクで今は学生には十分すぎるほどのお金を稼いでいる。彼がそれに費やす時間は週に数時間だ。

我々に共通しているのが、まず最初に何かに挑戦して諦めた(方向転換した)ところである。そしてそれ(新しく取り組んでる物)は、今でも門外漢であると思っているし、心底好きなものでもなく、こだわりもないので皆が好きなように気兼ねなく寄せられる。ということである。

最初に何かに挑戦している時に得たスキルは、存分に生かされるし、お金を産むことによって満たされる部分が大きいので、また勉強をする。しかも、それに全時間を注ぎ込むわけではなく、短時間でさっと作ることが多い。

これをボルボくんは、「これって才能やと思うんですよ。」といったわけである。

で、自分はなるほどと思った。そしていろんなことが後から思い当たる節がでてきた。

例えば、こだわりがないという部分で、自分の中で100点じゃなくても全然ポンポン出せること。その道のプロみたいな人がいるとしても、全く気にならないこと。(そもそも興味がない)大事なのは、クオリティよりも、それっぽく見えるかどうかだけであり、効率的にお金を産むことである。

がんばってクオリティを上げ続けて時間をかけるとコスパが下がる。コスパが悪いと、やる気がなくなる。コスパがいいと、俺全然がんばってないのに、金だけ入るわ。ワロ。という感じで優越感を得られる。しかし、ここで大事なのは、難なくできるので、割と大量に作れることだ。大量に作れるので、クオリティ高めるタイプの競合は追いつけない。しかも大量に作ってる間に徐々にクオリティも上がっていくのだ。

ボルボくんと私にもう一つ共通しているのは、まさにここで、我々が何かを作るスピードは異常に早い。例えば私のこの文章にしてもこんなの30分もあれば書ける。何も考えずに。大事なのはコスパだ。コスパがスピードを産む。


あらゆるツール、あらゆる知識、それらを採用するかどうかはコスパだけであり、それ以外の判断基準を持たない。

それくらいドライに考えられるもの。そういうものと出会えること。これが大事で、それに出会えた我らはとても快適に日々を送っている。面白いのが、それを続けていると、その道のプロにいつの間にかなってることである。

一方こういう考えの人もいる。

才能は苦行と共に開花させるものである。誰にも認められなくとも、毎日苦しみの中で育まれる物である。といった考え。

私はこの思想に長らく苦しめられた。常にその道のプロと比較し、自分のダメさに嘆き、やる気をなくし、鼓舞するために学習にお金をかけたりして、それでも逃げたい気持ちが裏腹にあるので、効率が悪くて、また自己嫌悪。といった感じ。自分の作品が他人に理解されないことも苦しい。

しかし、もしその道のプロと呼ばれる人たちが上記のように、実はそんなにこだわりなく、それっぽく聞こえるように作っていただけとしたらどうだろう?それに影響された人たちだけが、深読みして勝手に頭の牢獄をつくっているだけだとしたら・・。

今はもう絶対にこういう効率が悪い物に手を出すことはないと断言できる。なぜなら人生は有限だからである。


まとめると、才能というのを、自分が苦もなくできることの中で、思ったよりも他人にウケることであり、確実にお金を産む技術であると定義することにした。

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