年末にコミュニティのボイチャで、ぼるぼくんからこのセリフが出てきた。
「それって才能やと思うんですよね」
そのことについて書いていく。
まず、自分はある程度音楽で頑張ってた時期があって、それでも結局芽が出ずにやめてしまった過去がある。それ以降音楽は趣味として考えていた。また、お金を稼ぐというテーマのもとであれば、映像、グラフィック、文章、これらの勉強を適度にこなし、お金という結果を産むことができた。
ただ、それを才能だとは考えたことがなくて、単にお金を稼ぐスキルだと自分は思っていた。
また、ぼるぼ君は自分の好きなジャンルの音楽をかなり気合入れて作っていたが、それではお金を産むことができず、だんだん苦行になっていた。しかし、ある時になんのきなしに始めた、ビートメイクで今は学生には十分すぎるほどのお金を稼いでいる。彼がそれに費やす時間は週に数時間だ。
我々に共通しているのが、まず最初に何かに挑戦して諦めた(方向転換した)ところである。そしてそれ(新しく取り組んでる物)は、今でも門外漢であると思っているし、心底好きなものでもなく、こだわりもないので皆が好きなように気兼ねなく寄せられる。ということである。
最初に何かに挑戦している時に得たスキルは、存分に生かされるし、お金を産むことによって満たされる部分が大きいので、また勉強をする。しかも、それに全時間を注ぎ込むわけではなく、短時間でさっと作ることが多い。
これをボルボくんは、「これって才能やと思うんですよ。」といったわけである。
で、自分はなるほどと思った。そしていろんなことが後から思い当たる節がでてきた。
例えば、こだわりがないという部分で、自分の中で100点じゃなくても全然ポンポン出せること。その道のプロみたいな人がいるとしても、全く気にならないこと。(そもそも興味がない)大事なのは、クオリティよりも、それっぽく見えるかどうかだけであり、効率的にお金を産むことである。
がんばってクオリティを上げ続けて時間をかけるとコスパが下がる。コスパが悪いと、やる気がなくなる。コスパがいいと、俺全然がんばってないのに、金だけ入るわ。ワロ。という感じで優越感を得られる。しかし、ここで大事なのは、難なくできるので、割と大量に作れることだ。大量に作れるので、クオリティ高めるタイプの競合は追いつけない。しかも大量に作ってる間に徐々にクオリティも上がっていくのだ。
ボルボくんと私にもう一つ共通しているのは、まさにここで、我々が何かを作るスピードは異常に早い。例えば私のこの文章にしてもこんなの30分もあれば書ける。何も考えずに。大事なのはコスパだ。コスパがスピードを産む。
あらゆるツール、あらゆる知識、それらを採用するかどうかはコスパだけであり、それ以外の判断基準を持たない。
それくらいドライに考えられるもの。そういうものと出会えること。これが大事で、それに出会えた我らはとても快適に日々を送っている。面白いのが、それを続けていると、その道のプロにいつの間にかなってることである。
一方こういう考えの人もいる。
才能は苦行と共に開花させるものである。誰にも認められなくとも、毎日苦しみの中で育まれる物である。といった考え。
私はこの思想に長らく苦しめられた。常にその道のプロと比較し、自分のダメさに嘆き、やる気をなくし、鼓舞するために学習にお金をかけたりして、それでも逃げたい気持ちが裏腹にあるので、効率が悪くて、また自己嫌悪。といった感じ。自分の作品が他人に理解されないことも苦しい。
しかし、もしその道のプロと呼ばれる人たちが上記のように、実はそんなにこだわりなく、それっぽく聞こえるように作っていただけとしたらどうだろう?それに影響された人たちだけが、深読みして勝手に頭の牢獄をつくっているだけだとしたら・・。
今はもう絶対にこういう効率が悪い物に手を出すことはないと断言できる。なぜなら人生は有限だからである。
まとめると、才能というのを、自分が苦もなくできることの中で、思ったよりも他人にウケることであり、確実にお金を産む技術であると定義することにした。
コメント
コメント一覧 (2)
> コスパだのタイパだのいって音楽にあんまり興味無い人ら向けのBGM作る能力と、文化芸術的才能は全く性質が違うものだけどね。
そうですね。性質違いますね。で、金を考えずに時間や労力を投下できる人に必要なのは孤独と忍耐力ですね。大抵社会人になるとかそういうタイミングでやめちゃいますけど。やってて楽しいにある程度金になることは必要要素と私は考えますね。そして文化芸術才能とやらに囚われて鬱病になるよりよっぽどマシ。